特別研究員

勝海舟と竹川竹斎の交流を巡って

大妻女子大学人間生活文化研究所 特別研究員
大妻女子大学 名誉教授
前納 弘武

前納弘武先生

 文士にとっての作品はとにかくも完結するが、政治家の作品は決して完結することがない。そのため、政治家の仕事には常に悲劇性と徒労の感覚が付きまとう。ならば政治家にとって、何が政治的営為に衝き動かすのであろうか。この問題を、江藤淳は勝海舟のなかに問い、その答えは「公的なものに対する情熱」であったという。こうした政治家の原型も今では見る影もないが、海舟にとっての「公的なもの」は果たしてどのように変容していったのか、その道筋を辿るに際し、江藤は咸臨丸艦長として渡米したあたりから「公的なもの」の標徴をみようとする。
 しかしながら、海舟にとっての「公的なものへの情熱」は、渡米以前にも大いに認められるものである。日本の未来は剣よりも蘭学にあると見定めた若き修業の時代、海舟の日常は極貧の状態にあったが、ここに登場するのが、所謂「豪商ネットワーク」の一人、伊勢松坂の竹川竹斎である。中でも竹斎との交流は経済的な支援に留まらず思想的な側面にまで及んでいる。
 嘉永6年6月のペリー来航に及び、老中阿部正弘は階層を問わず広く意見徴収の具申を求めた。この政策がわが国における「公共圏」形成の端緒となったものであり幕府崩壊の遠因ともされる事件であったが、これに呼応して海舟は、後の出世の切っ掛けとなった「海防意見書」を幕府に提出した。その骨子は、同じ頃に作成された竹斎による『護国の後論』で展開された開国論とほぼ同様の論調であった。竹斎は商人であるだけに、軍艦と商船の両面を兼ね備えた海防策を提唱し、これを海舟も自らの建白に取り入れたのである。その10数年以前には、竹斎は、天保飢饉の経験を踏まえて灌漑用水の整備に尽力し、嘉永年間には、知の普及のために私設図書館たる文庫を「社倉」の如くに運営する事業にも並々ならぬ力を注いでいた。竹斎の「公的なものへの情熱」は、海舟に引き継がれていったのである。
 ペリー来航の折、竹斎44歳、海舟は未だ30歳であった。

 

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