
No.26
2026年3月19日、大妻女子大学名誉教授 大澤清二先生が逝去されました。
1988年に人間生活科学研究所(現、人間生活文化研究所)へ着任されて以来、先生は研究所を拠点に、タイ、ミャンマー、ネパール、中国、さらに国内では青ヶ島や八重山諸島などで数多くのフィールド研究を展開されました。研究所長、大学院研究科長、副学長など、大学の要職を歴任されましたが、その根底には、常に研究者として現場に立ち続ける姿勢がありました。
先生の研究の出発点には、1978年に始められた東南アジア医療情報統計の編集事業『SEAMIC Health Statistics』がありました。以来ずっと先生は「データで歴史を証言する」という思いのもとに資料を蓄積され、それらは人の発育発達や生活文化の変容を実証する数多くの研究へと結実していきました。先生が統計学とフィールドワークを通して、生涯をかけて探究されたのは、人間そのものでした。
先生が海外でのフィールド調査を始められたのは、1980年代初頭のことです。当時、教鞭をとられていた筑波大学で、大学院生や学部生を連れ、タイ東北部のウボン地区を拠点とした人類学的計測による発育発達調査や行動疫学調査などを開始されました。当時、先生は31歳。学生とも歳が近く、兄貴のような存在だったと多くの門下生が語っています。その親しみと信頼の関係は、その後、何十年を経ても変わることはありませんでした。
私が先生の門をたたいたのは、30余年前に、かつての狭山台校舎で聴講した発育学の講義がきっかけでした。人の身体を「着衣基体」として捉える先生の視点は、衣服や物質文化を学んでいた私に新たな研究の方向性を示してくださいました。
こうして先生の指導を仰ぐようになってから参加したフィールド調査には、いつも多くの門下生が参加し、集落へ向かう車中では先生の冗談や駄洒落が飛び交い、笑いの絶えない道中でした。一日中、身体計測や生活調査に汗を流し、宿では調査票を整理しながら就寝まで話が続きました。調査は厳しいものでしたが、調査隊には、いつも笑顔が絶えませんでした。こうした日々の調査が、その後の先生の数多くの研究成果を支えていました。
先生の研究は、既存の学説を追認するものではありませんでした。長年にわたり収集したデータを基に、定説を実証的に問い直し、新たな知見を示されました。人間にとって普遍的とされてきた思春期スパートが、狩猟採集民には必ずしも認められないことを明らかにした研究、30年後を見据えて開始されたウボン地区での縦断的発育研究、多民族国家において、既存の画一的な発育標準値をそのまま適用する傾向に疑問を呈し、民族別の発育発達標準値の必要性を示した研究は、その代表的業績です。
さらに、こうした学問的探求にとどまらず、先生の仕事はフィールド研究の枠を超えて広がっていきました。文部科学省による国際教育協力事業(2003-2011)では、タイやミャンマー全国を対象とした学校保健・健康・環境教育改善事業を推進されました。先生はよく「一時的な支援は砂漠に水をまくようなもの。大切なのは現地の人々が自立して発展していける仕組みを築くこと」と話されており、その信念は、先生の研究と教育のすべてに一貫して流れていました。
先生が切り拓かれたフィールドは、今もそこにあります。
そこには、まだ解かれていない問いがあり、未来の研究を待つ豊かなデータがあります。私も先生が切り拓かれたフィールドに立ち続け、一つひとつの問いに向き合いながら研究を続けていきたいと思います。
先生の長年にわたるご指導とご厚情に深く感謝申し上げるとともに、心よりご冥福をお祈り申し上げます。
下田敦子 准教授 人間生活文化研究所
大澤清二先生 大妻女子大学名誉教授
1946年8月23日生、2026年3月19日逝去。
1988年4月、大妻女子大学人間生活科学研究所(現、人間生活文化研究所)教授として着任(2019年3月まで)。
2019年4月 大妻女子大学名誉教授、人間生活文化研究所特別研究員(~2026年3月まで)
2025年に瑞宝中綬章を受章され、逝去後、正五位を追贈されました。

1980年代初頭、タイ東北部ウボン地区でのフィールド調査。
中央が大澤清二先生。右は國土将平先生(現・中京大学教授)、
左は佐川哲也先生(現・金沢大学教授)。