
No.26
私が大澤先生に初めてお会いしたのはおよそ五十年以上前だと思います。当時先生は東京大学の教育学部の大学院に在籍中で、私の方は文学部の大学院生でした。そのころ先生は心電図波形から自律神経系の交感神経と副交感神経の働きを独立に抽出するという独自の研究に取り組んでおられました。私の方に、そのための因子分析のご依頼があったのが初めての出会いだったと思います。今は因子分析を含めた多変量解析等たいていの統計分析は、ノートパソコン程度でだれでもどこでも簡単に実行できますが、当時は大型コンピュータが備わった特別のシステムとプログラムがなければ不可能でした。そのころ私は東大の計算機センターの指導員をしておりましたので、そのようなご依頼があったのだと思います。先生からお預かりしたデータの因子分析の結果が先生の予想通りで先生は大変喜ばれて、先生と大学近くのレストランでお祝いの乾杯をしたことを覚えております。
そのご縁があって、その後先生がSEAMICのプロジェクトチームのリーダーになられたとき私もその一員として参加させていただきました。そのプロジェクトでは主に東南アジアの保健統計データの収集や分析をされており、私も分析や自動検索システムの作成等でお手伝いさせていただきました。またそのプロジェクトでは世界全体の人口動態を含めた社会統計データの収集とディジタル化もすすめており、私自身そのデータを用いた世界全体の社会発展モデルを作成していました。大澤先生からその結果を学術雑誌に発表しようというご意見があり、大澤先生との連名で学術雑誌に投稿し掲載が実現しました。これが私の初めての学術雑誌での発表論文になりました。これもすべて大澤先生のご指導のたまものであり、いまさらながら本当に感謝しております。
その後先生が筑波大学に就任されて後も大学の教官寮やご自宅に何泊もお邪魔しては、食事やお酒をごちそうになり、奥様にまで家族のように接していただきました。
思えば私の青春は大澤先生やそのご家族とともに在ったような気がします。
大澤先生は若い時からスポーツ万能で筑波大学のオリンピックに出場するような学生たちとも色々な競技をなさっていました。そのあと先生が「やっぱりなかなか勝てないわ」と残念そうにおっしゃっていたのをよく覚えています。普通どんな競技でもオリンピッククラスの選手に勝てないのが当たり前だと思うので、そうおっしゃったのにかえって驚いてしまいました。特にスキーはお上手でほとんどプロ級の素晴らしい滑りでした。そのままその道に進まれてもそれこそ冬季オリンピックに出場できたのではないかと思えるほどでした。私もよく先生とスキー場にご一緒させていただき、下手なりに先生から滑りの基礎を教えていただきました。後年、わたしは北海道大学に赴任しましたが、この大学は教員も学生もスキーをすべるのが当たり前の世界でした。よく教員のツアー等でスキーに出かけましたが、当時、北海道大学の行動科学科の学科長でした戸田正直先生が主催された、ニセコスキー場の雪山をスキーで登って裏の北側の斜面を降りるというとんでもないツァーに参加してしまいました。そこはその前年に某先生の小学生のお嬢さんが下の温泉まで転げ落ちたというといういわくつきの急斜面でしたが何とかその斜面をケガもせず無事に降りられたのもひとえに大澤先生のご指導のたまものと感謝しております。
その後、私の方が北海道大学から東京工業大学に移りました時には、大澤先生は既に大妻女子大学の副学長で人間生活文化研究所の研究所長を務めておられました。その折にも大澤先生の主催されている学術誌「人間生活文化研究」に当方の博士課程の学生の論文を投稿し掲載していただいたり、大澤先生には大変お世話になりました。
さらに当方が東京工業大学を退職した時には本を置く場所もないだろうし科研の継続にも困るだろうと心配して頂き、当該研究所の特別研究員として採用していただきました。また大学院の非常勤講師に採用していただいたこともあり、よく研究所でお昼をごちそうになりながら、大澤先生のミャンマーやタイでのフィールド研究にまつわる興味深いお話を聞かせていただきました。
先生が退職された後も、よくお電話でお元気な声を聴いていましたので、この度、研究所の事務の方から先生が亡くなられたとお電話でお知らせ頂いたときには、まったく何のことかよく理解できず、何度も聞き返したほどでした。
ご葬儀にも参列し、下田さんのご案内でお墓にもお参りさせていただきましたが、いまだに信じられない思いです。この思い出をつづっておりましても誠に誠に残念でなりません。半世紀にわたるご厚誼に感謝し、心よりご冥福をお祈りいたします。